KONYA BÜYÜKŞEHİR BELEDİYESİ

歴史的建造物

 

コンヤは長い間セルジューク朝の首都だったため、特にセルジューク朝時代の歴史的建造物が保存されています。

 

アラアッディンの丘とモスク

歴史は、常にアラアッディン・ケイクバットを賞賛しています。ケイクバットは、賢明な芸術活動の保護者、経験豊かな指揮官であり、熟練した芸術家でもあります。メヴラーナのような偉大な学者や文化人をコンヤに招き、丁重にもてなしたのはケイクバットです。ケイクバットの名をコンヤに知らしめた最も顕著な建造物は、アラアッディンの丘の北に建てられたセルジューク朝のスルタンの有名な宮殿です。市内が見渡せる場所で強固な要塞に中に建てられたこの宮殿は、今日壁の一部分が残っているだけです。この丘の上にあるアラアッディン・モスクは、際立った美しさを保ちながら今もその存在を誇示しています。セルジューク朝時代のコンヤ最大、最古であるこのモスクの建設は、セルジューク朝のスルタン・ルクネッディン・メスッド一世(1116-1156)により晩年に開始され、クルチアスラン二世の時代に建立が進められ、スルタン・アラアッディン・ケイクバット一世により1221年に完成されました。モスクは、イスラム建築様式で建てられ、上部は木材と土で覆われています。モスクには、ビザンツ帝国時代とローマ時代の遺跡の石柱が使用されています。さらに興味深いのは説教壇(ミンベル)です。説教壇は黒檀で出来ており、セルジューク王朝の木工技術の最も素晴らしい例であり、1155年にアフラット出身のメングム・ベルチが建築した傑作です。タイル(トルコ芸術によく見られる不透明色のガラスとモチーフで装飾された陶器)で装飾された説教壇(モスクのニッチはメッカの方向を指している)の前には、やはりタイルで装飾されたドームで囲まれた空間があり、説教壇とドームのタイルは、一部分はがれています。このモスクが建立されたとき、メヴラーナがここで説教したと言われています。同じ頃クルチアスラン二世がこのモスクの近くに霊廟を建立させました。この霊廟では、セルジューク朝のスルタンの墓に属するタイルで装飾された8基の墓が発見されています。

 

インジェミナーレ神学校

アラアッディン・モスクの西側にあるこの神学校は、ハーディス(ムハンマドとその教友たちの言行録)を教えるため1254年にセルジューク朝の大臣サヒブ・アタ・ファーレッディン・アリにより創設されました。ケリュック・ビン・アブドラーが設計し、セルジューク朝の石工芸術の傑作に数えられ、石造りの門の上部には、レリーフ、幾何学模様、植物の文様と共にセルジューク朝の装飾文字で「ヤシンとフェティフ」の文字が書かれています。建物の内部は、中庭、サロン、教室、学生のための小房があります。ミナレット(尖塔)の基礎は、切出し石に覆われたレンガを材料として作られました。ミナレットのバルコニーの部分は半ピラミッド形で12の角があり、その上の本体の角はトルコブルーの釉薬がかかったレンガで造られています。1901年に落雷のため1番目のテラスのあたりまで崩壊しました。1956年に博物館として開館し、セルジューク朝、カラマン候国、オスマン帝国時代作られた石製、木製の工芸品が展示されています。

 

カラタイ神学校

インジェミナーレ神学校のすぐ近くにあるカラタイ神学校は、サヒブ・アタ・ファーレッディン・アリと同様、芸術的な特色を有する作品により、抜きん出た高官としてその名を知られる宰相ジェラレッディン・カラタイが1251年に創設しました。設計者は不明で、オスマン帝国時代の19世紀末まで神学校として使用されていました。カラタイ神学校はセルジューク朝時代のタイル装飾で重要な役割を果たしており、1955年に「陶器博物館」として開館しました。ベイシェヒル湖の周辺にあるクバダバート宮殿の発掘で発見された壁のタイル、ガラス製の皿や、コンヤとその周辺で発見されたセルジューク朝とオスマン帝国時代のタイル、陶器製の皿、ランプ、漆喰製の出土品が多数展示されています。

 

スルチャル神学校

コンヤのセルジューク朝に属する古い建造物であるスルチャル神学校は、1242年にベドレッディン・ムスリフによってイスラム法学校として創設されました。この神学校もすばらしいタイル装飾が施されており、1960年に墓地記念碑博物館として開館しました。コンヤ市内の国有化された墓地から収集した歴史的、芸術的に貴重な墓石をセルジューク朝時代、カラマン候国時代、オスマン帝国時代に分類して展示しています。また、墓石の様式、モチーフ、文字の特性を考慮しながら年代順に配置されています。

 

サドレッディン・コンエヴィ・モスクと霊廟

1274年に建立されたサドレッディン・コンエヴィ・モスクは、マラトヤ出身でコンヤに移住した、当時の著目な学者の1人であるサドレッディン・コンエヴィにちなんで名付けられました。サドレッディン・コンエヴィは1207年にマラトヤで生まれ、1274年にコンヤで死去しました。彼はイスラム世界のさまざまな文化の中心地を旅しその時代の学者から教えを受け、同時代の知識と思索生活を身近で知る機会を得ました。

ムッラー・サドレッディンはスーフィズムの歴史のなかでも最も重要な人物の1人で、コンヤでハーディスを教え、ムヒッディン・イブン・アラビーの思想に新しい解釈をもたらし同時代のメヴラーナ・ジェラルディン・ルーミーと交流があったことで注目を集めました。

メヴラーナへの深い愛情で結ばれているサドレッディン・コンエヴィの霊廟は、モスクの東側の庭にあります。屋根が開いている霊廟で破壊されず残っているのはこの霊廟だけです。霊廟の様式は、セルジューク朝時代のドーム(円錐形の屋根)に似ています。本体の覆いがなく、大理石で作られている基礎部分の上には、四角い枠にのった檻のような木枠だけの円錐屋根があります。

 

シェムス・タブリージー・モスクと霊廟

メヴラーナ・ジェラルディン・ルーミーの人生で最も重要な変化は、シェムス・タブリージーとの出会いで始まります。その日まで神学校とモスクでの講義と説教で忙しい日々を送っていたメヴラーナは、シェムスと出会ってから変わります。シェムス・タブリージーはタブリーズで生まれ本名をメヴラーナ・ムハンマドと言いますが、彼の精神的探求は、メヴラーナと出会って終わりとなります。世間や身なりを気にしないシェムスは、メヴラーナと3年近く交友関係を続けた結果、人生の視野を広げ、アッラーへの全面的な敬愛を植えつけました。メヴラーナは、友人シェムスを忘れられず、書きつけた詩作はシェムスに捧げられたかのようでした。

13世紀に建立されたとされるこの霊廟は、今日、コンヤで「シェムスの場所」として知られ、メヴラーナ霊廟に行く前に訪問されます。今日の建物は1510年にアブドゥレザクオール・エーミル・ベイにより、モスクと一緒に改装、増築されたものです。ただし、誰が実際に設計したのかはわかっていません。モスクと隣接しており、内部は天井があり、外部は八角形の枠の上にピラミッド形の屋根があります。サロン形式の霊廟は、彫刻を施したブルサ様式の木製のアーチでモスクとつながっています。アーチの反対側に上と下に分かれて2つの窓があります。棺の下には以前井戸があったといわれていましたが、調査の結果、井戸ではなくミイラを入れるものだったことがわかりました。霊廟の本体は石で、ドーム型の屋根はレンガで造られていて、1977年に改修されました。

 

都市の中心には多数のモスクや神学校があり、コンヤの往時の興隆を偲ばせます。

そのうち少数ですが、ここに紹介します。

 

イプリックチ・モスク

このモスクはアラアッディン通りに面しています。1201年にシェムセッディン・アルトゥンアバにより建立が開始され、1332年にソムンジュ・エブベキルにより改造されました。モスクは、イプリックチ・チャルシュにあるためイプリックチ・モスクと呼ばれています。1951年から1960年まで古物品の博物館として使用されましたが、1960年に再びモスクに戻されました。

 

サヒップ・アタ・モスクとクリエ

セルジューク朝の宰相サヒップ・アタにより1258年から1283年までの間に建立され、モスク、霊廟、テッケ、ハマムで構成されています。設計者は、アブドルラ・ビン・ケルリュックです。

 

セリミエ・モスク

メヴラーナ修行場の西側にあるこのモスクは、1558年セリム二世がスルタンに即位する前に建立が開始され、1567年に完成しました。オスマン帝国時代のクラシックな様式の建物として、コンヤで最も美しい建造物のひとつです。モスクの北側には6本の円柱で支えられた7つのドームがある集会所と通用口があります。集会所の両側にはバルコニーが1段付いたミナレットが1本ずつあります。

 

アズィズィエ・モスク

コンヤの中心にあり、切り出したギョデネ石を使用して建てられており、オスマン帝国時代の建造物のなかでも最も美しい建物の1つです。1671年から1676年にかけて、シェイフ・アフメッドの建立したモスクが焼失したため、1867年にスルタン・アブドゥルアジズの母ペルテニハルの名前で今日のモスクを建立し、その名を偲ばせています。トルコのバロック様式のモスクには、6本の大理石の円柱に支えられた3つの丸天井を持つ集会所があり、その両側には噴水のような形をしたミナレットがひときわ目を引いています。モスクの上部には大きくてゆったりとしたドームがあります。

 

シェラフェッティン・モスク

県庁舎の南側にあります。このモスクは、最初12世紀にシェイフ・シェラフェッティンにより建立され、1336年に取り壊された後、チャウスオールメフメット・ベイが再度建立しました。モスクの本堂は切出し石の大型の丸天井で覆われています。丸天井を10本の柱が支え、南側は半丸天井で支えられています。ミフラーブがいたるところに設けられています。南側以外の2階部分には、仕切られた席があります。モスクの内部は、カリグラフィーと壁画で飾られています。大理石製の説教壇とミフラーブは、素晴らしい価値がある芸術品です。バルコニーが1段付いたミナレットは後から増設されました。

 

カプ・モスク

コンヤの中心地、テウフィキイェ通りの上方にあります。本来の名前はイフヤイイェと言い、コンヤ城砦にある扉の周辺にあることからカプ(扉の意)モスクと呼ばれています。このモスクは、最初1658年にメヴレヴィー修行場のシェイフであるピル・フュセイン・チェレビによって建立されました。その後しばらくして解体され、1811年にコンヤのムフティー(法学者)、エセンリレルリザデ・セイイド・アブドゥラフマンにより再度建立されましたが、1867年に起こった火災でモスクと周辺のヴァクフの店舗が焼失しました。1968年に新たに建て直され、その門の碑文にはイスラム暦1285年の日付が記されています。カプ・モスクは、コンヤにあるオスマン帝国時代のモスクのうち最も大きいと言われています。北側に10本の大理石の柱がある高いナルテックスと低いアーチ型の門があります。また、東西にも1つずつ門があります。切り出した石で建立されたモスクの上には、外側から屋根、内側から大小8個のドームが載っています。

 

ハジュ・ベイスザデ・モスク

コンヤが生んだ最も重要な宗教学者であるハジュ・ベイスザデの名前を冠したモスクの建設は1988年に開始されました。コンヤ市内の中心にあり、モスクの他に出版、宿坊、ムフティの部屋などの付属施設も備え、1万人を収容できます。3段のバルコニーが付いた2本のミナレットの高さは78メートルあり、その地区の最も高いミナレットとして知られています。

 

エシュレフオール・モスク

エシュレフ候国の記念碑であるエシュレフオール・モスクは、ベイシェヒルの中心にあり、これまでに建設された建物のうちで歴史的に最も重要な建造物として評価されています。北から南に伸びる長方形のモスクは、北にある正門のほかに東西にそれぞれ1つずつ門があります。最初1134年にセルジューク朝のスルタン・サンジャルの命により建立されましたが、その後1297年にエシュレフオーフ・シュレイマン・ベイにより建て直されました。モスクの内部にある木工細工は、世界でも重要な作品の1つです。

 

シルレ・アヤ・エレニ教会

シルレは、アナトリア文明にとって特別の意味を持ち、歴史上異なる文化が共存し、初期キリスト教文化の重要な中心地です。 327年にビザンツ帝国王コンスタンティヌス一世の母ヘレナが巡礼のためにエルサレムに行く途中、コンヤに寄ってこの地で初めてキリスト教時代のすばらしい彫刻が施された聖堂を見たとき、キリスト教徒のためにシルレで聖堂を建立しようと決心しました。アヤ・エレニ教会は何世紀もの間修復されながら、今日まで残っています。教会の内門のギリシア文字で書かれたトルコ語の修復碑文が、教会の歴史を物語っています。別の3行の碑文に教会の4回目の修復がスルタン・メジットの時代に実施されたと記されています。教会は、まっすぐに切り出されたシルレ産の石で建造されています。教会の内部には岩をくりぬいた部屋がいくつかあります。教会の北にある扉から外のナルテックス(ロビー)に出られます。ここには、女性たちの集会所に通じる2方向の階段があります。教会の本堂は4本の柱で支えられ、3つの身廊があります。教会の内部にある、上部が漆喰で固められた木製の説教台と本堂と後陣を分ける漆喰と木製の枠は、芸術作品の傑作です。本堂の廊下と支柱には、イエス、聖母マリアと使徒を描いた絵があります。

 

ハスベイ神学校

ガジアレムシャフ地区にあります。カラマン候国メフメット二世の時代に、1421年ハジュ・ハスベイオール・メフメット・ベイにより「ハーフィズ(コーランを全部暗記している人)の家」として建立されました。レンガ造りの本堂は正方形で、上方の3面は荒削りした石で覆われています。正門がある北側は、加工された大理石で装飾されています。本堂からドームへは古典的な山形のデザインを施しています。その三角形のうち2つは緑色のタイルで装飾されています。本堂の内部にはタイルで飾られたミフラーブもあります。

 

メーラム・ハスベイ・メスジッド

コンヤの市民の憩いの場として親しまれているメーラムにあります。ハスベイオール・メフメットにより建立されました。切出し石で作られ、上方は土製の屋根で覆われています。説教壇はとてもシンプルです。モスクの隣には孤児院があります。立方体の形をしたこのモスクは、今日、子供図書館として使用されています。

 

イエシル・テュルベ(緑の霊廟)(クベイ・ハドラ)

4本の太い柱で支えられており、セルジューク朝時代の傑作です。ドームには、16に分かれている円錐があります。円錐とシリンダー状の本体が合体しているところには「Ayet-el Kürsiが書かれています。ドームはさまざまなモチーフの装飾とクーファ体(アラビア文字の書体)の韻文で飾られています。ドームの下にはメヴラーナと息子のスルタン・ヴェレドが埋葬されています。墓の上にはシュレイマン大帝が贈った大理石の棺が置かれています。棺には1894年にアブドラハミット二世が贈った金銀製の覆いがかけられています。メヴラーナの父バハーアッディン・ワラドの棺はセルジューク朝時代の木工細工の傑作で、1274年にメヴラーナのために作られましたが、1565年にシュレイマン大帝がメヴラーナとその息子の墓に新しい大理石の棺を作ったときに、その古い木製の棺は取り出されメヴラーナの父の墓の上に置かれました。

 

タウスババ霊廟

市民の憩いの場として親しまれているメーラムにあります。アラアッディン・ケイクバットの時代にコンヤで死去したシェイフ・タウス・メフメット・エル・ヒンディの霊廟です。石とレンガで作られ、トナス式ドームがあるシンプルな建物です。

 

アテシュ・バシュ・ヴェリ霊廟

旧メーラム通りに面しています。クラシックなセルジューク朝の霊廟で、1285年に死去したメヴレヴィー・アテシュバズ・ユスフのものです。切り出し石を材料とする八角形の本堂にレンガで造られた8角錐の屋根が載っています。石枠がある門のところには墓の地下降りる扉があります。

 

ギョメチ・ハトゥン霊廟 

ムサルラ墓地にあります。セルジューク朝の墓の中で変わった特徴を持っています。地下には、アーチがあるサロンがあります。大部分が切り出し石、その他の部分はレンガで造られています。外観は、要塞に似ており、サロンのアーチはモザイクで飾られています。この霊廟は、セルジューク王朝のスルタン・リュクネッディン・クルチ・アスランの妻ギョメチ・ハトゥンのものだと言われています。

 

アリ・ガウ・ザヴィエと霊廟

タルラ地区にあります。神学校のデルヴィーシュの宿舎で、14世紀に建立されました。15世紀のハジュ・バイラム・ヴェリの一族であるアリ・ガヴ・ババが埋葬されています。サロンと4つの部屋があります。

 

ナスレッディン・ホジャ霊廟(アクシェヒル)

偉大な哲学者でユーモアの巨匠であるナスレッディン・ホジャは、シウリヒサールで生まれ、アクシェヒルに定住し、この地で生涯を終えました。人々を笑わせるときも考えさせるホジャの霊廟は、アクシェヒルの城壁の東にある彼の名を冠した墓地にあります。何度もの改修工事のため元の形が失われましたが、1905年アクシェヒルの郡長シュクリュ・ベイが現在の外観に仕上げました。昔の建物で残っているのは、中央の霊廟のみです。大理石の棺の端に、ユーモアの巨匠の生涯を象徴するように、死去した年、イスラム暦683年(西暦1284年)が386と逆に書かれています。

 

このように、豊かな文化を抱いているコンヤは、最も素晴らしい貴重な市井の建造物が見られる世界有数の文化都市です。

そのうちのいくつかをここに紹介します。

 

ザザディン・ハン

スルタン・アラアッディン・ケイクバットの時代の1236年に、セルジューク朝の宰相ヴェジル・サーデッティン・キョぺックにより建設されました。

この隊商宿は夏と冬の生活様式を併せもった中庭形式になっていて、全長は104メートル、幅は62メートルです。石造りの建物の外壁は、イスラム以前の時代に属する品の破片を利用して作られました。コンヤ-アクサライ線の25キロメートル先にあるトメック部落にあります。

 

ホロズル・ハン

1248年に、今日のコンヤ-アクサライ線の8キロメートル先に冬の別荘として建造されました。

 

オブルック・ハン

セルジューク朝の時代に、商業用道路に面して建設された隊商宿の1つにオブルック・ハンがあります。ハンの壁には、昔の居住地から運んできたといわれているビザンツ時代の石が使われています。

 

スルタン・ハマム

ラレンデ通りにあるサヒップ・アタ・キュリエに属するスルタン・ハマムは、現在でも使用されています。

 

マフケメ・ハマム

シェラフェッディン・モスクとシェムシ・テブリーズ・モスクの間に位置する歴史的に由緒あるトルコ風呂マフケメ・ハマムは、国民を清潔に保つ役目を果たしてきました。ここは今でも使用されています。

 

メーラム・ハマム

由緒ある橋の上にあるカラマン候国時代に作られたメーラム・ハマムは、コンヤ内外の人々の関心を集めています。